30.反論④:「老年は死から遠く離れていないから惨めだ」への反論
「年をとると死ぬ時が近いから惨めだ」ということに対して、キケローは「年をとっても、【死ぬなんてたいしたことじゃない】と悟ることができていない人こそ哀れだ」と言ってのけます。「死んで魂がすっかり消滅するのなら、死なんて無視したらよい。魂が永遠にあり続けるところに行けるのなら、むしろ死を待ち望めばよい。」といいます。若い人もすべていずれは年老いて死んでいくのに、年寄りに死が近いということだけで、老人を哀れんだり、惨めに思うことは間違っているということです。束の間の人生も善く生き、気高く生きるためには十分に長い。老人が死ぬのは、燃え尽きた火が何の力も加えずともひとりでに消えゆくもので自然に従ったことなのです。
この時代の人、哲学者の人は人生において「徳を積み、気高く生き、尊敬される人となる」ことに価値を置いていたように思います。この本にでてくる「大コト―」なる人物は、日本でいうならまるで明治時代の偉勲や江戸時代の武士のように、禁欲的で尊厳に満ちています。
現代を生きる私たちが不幸なのは、価値観が多様すぎて自分の価値観としてどれが正しいのか自信が持てないことや、快楽主義的に刹那的に今を楽しむ生き方に賞賛が集まりすぎていて、「我慢して、努力して、やせ我慢して生きる」ことの方が生きづらいとことかもしれません。「徳を積む」とか、「品格あるふるまいをする」「尊厳ある生き方をする」ということに価値があるということを学校も誰も教えてくれないのです。
予防医学の教員から鍼灸師になった私は、「燃え尽きるまで生きる」ことができるように、死ぬまでの時間はその命の炎を大切に燃やし続けなくてはならないと思います。死は誰にも平等にやってきます。望むと望まざるとにかかわらず人は必ず死にます。そして病に倒れるのは、その人が悪いわけではありません。何らかの事故で、生命の途中に無理やり死を迎えるのでなければ、病というのは死の前に立っていて、人が死にゆく道程の道案内をしています。出会いたくなくても出会ってしまうことも多いのですが、できれば病とは出会いたくない。年老いていくと、様々な病が死への道案内人のように近寄ってきますが、できるだけ出会いの時は後の方がよいですし、出会いたくないものです。
私はまだまだ修行が足りないのか「死なんてたいしたことじゃない」という心境に達することができていません。それだけの仕事をまだやっていないからでしょう。また魂の存在もよくわかりません。